有坂霞は学校が終わると、一目散にある場所を向かっていた。
 御近所付き合いのある有坂家の中では最も裕福で、豪邸に住む霞の親友、同級生の佐倉芽衣の家である。

「芽衣!」

 赤い絨毯の敷かれた廊下を通り、芽衣のいる部屋までやってくる。芽衣もまた霞がやってくるのが分かると、ぱあっと顔を明るくして窓からドアまで車いすを押して移動してきた。

「学校終わったんだね」
「うん。今日は始業式だからね」

 夏服とはいえ暑さが残る外での全力疾走でやってきた霞。汗の玉が流れて制服が透けて見える。芽衣にとって、走るという爽快感は味わったことがない。夏は外なんか出ずにクーラーの利いた部屋で快適に過ごすことが芽衣にとって最善の策になっていた。

「どう、具合の方は?」
「うん。別に悪くないよ」
「そう」

 車いす生活の芽衣。それは最近事故にあったわけでも、先天性の病を持って生まれたわけでもない。随分前の事件以降、芽衣は自分の足で立つことができなくなってしまっていたのだ。医者曰く、怪我は完治しているので、いつでも自分の足で立てると、言われているらしいが、芽衣は車いす生活に慣れてしまい、車いすで生活するようになっていた。
 ただし、車いすでの生活は、芽衣の日常生活を妨げ、健全な人から距離を置くようになった。極度の口下手と人付き合いが苦手な芽衣にとって、車いすという道具は格好の便利道具だったのだ。
 男子は見た目で遠ざけ、芽衣に近づいてくる女性は、心配してくれて、気を使ってくれるような人ばかりだ。お嬢様育ちの芽衣にとって、怒られ慣れていないことですぐ泣くとからかわれたこともあった。そんな傷つけられた経験が芽衣から車いす生活に拍車をかけたのだ。
 つまり、学校に行きたくないという引き籠りの生活だ。
 一学期丸々学校を休んだ芽衣をクラスは誰も気にしなくなった。しかし、霞だけは違ったのだ。今日はそのために芽衣の家を訪れたのだ。

「ねえ、学校行こうよ。 みんな待ってるんだよ」

 誰 も 芽 衣 を い じ め て な ど い な い 。
 芽衣が学校に来ることで、車いす生活を終わらせることが出来るのだ。
 芽衣が元通りの生活に戻れると信じているのだ。

「だめ、なんだよ」
「芽衣・・・」
「怖いの、外は。私は外に出ちゃいけない人間なんだよ」
「そんなことない。だって、前まで私と一緒に学校行ってたじゃん!これからも一緒に学校行こうって約束していたのに、どうしてそんなに弱くなっちゃったの?」
「もう、いっぱいいっぱいだよ。私、立てないし。私の傍にいたら霞ちゃんに迷惑かけるから」
「立てるよ!芽衣が立とうとしていないだけだよ!」
「何度も見せたじゃない。 私の足は私の思うように動かないんだよ。後遺症は残ってるんだよ」
「意気地なし!言い訳ばっかりして、自分の足で立とうと努力なんかしてないくせに!」
「私が霞ちゃんくらい強かったらよかったのにね・・・」

 いじめの件も、事故も、芽衣は自分がすべて悪いと思い込んでいる。
 時期が悪かったのだ。心が弱まった時に全ての災厄が降り注いだために、芽衣はひきこもりになってしまったのだ。それを芽衣自身、甘んじて受け入れている。
 だからこそ、霞にとって聞きたくないのだ。そんな弱音を。後ろ向きな発言を。
 前を向いて、一緒に歩きたいと思っているから。その理想のギャップが霞を苦しめる。

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「芽衣のバカ!もう知らない!」
「か、霞ちゃん――っ!」

 霞が部屋から消えていく。再び暑い外を走って庭を飛び出していく様子を、芽衣は窓から眺めることしかできなかった。
 二人の間に亀裂が入った。立ち直すことも難しいほどに深い溝が芽衣をさらに孤立させる。
 一人で生きたいと望みながら、霞にだけは嫌われたくないという矛盾。
 芽衣は自分の住みやすい空間から飛びだすように、車いすに捕まりながら、自分の足で立ち上がろうと必死に力を加えてみた。

「―――――――っ!!」

 プルプルと両足が震える。力を抜けばその震えが止まり、芽衣も車いすに深く沈み込んでしまう。

「・・・でき、ないんだよ」

 完治していても自分の足がもう立てないことは自分はよく知っている。
 自分の体重を支えられないほど両足の筋肉は衰えてしまっていたのだ。華奢で細い芽衣の体重だからこそ、筋肉もなかったのだ。
 思っている以上に人が立つってことは簡単じゃない。 誰もが当たり前のように出来ていることを、芽衣には出来ないという劣等感が、自分の弱さを浮き彫りにさせる。

「ごめんね、霞ちゃん・・・。私は弱いにんげん、なんだよ」

 誰もいない部屋の中で、芽衣はめそめそと泣き始めた。


 

 ・・・
 ・・・・・・
 ・・・・・・・・・

 そんな芽衣の様子を観察していた男が一人いた。

「失礼します、お嬢様」
「きゃっ!・・・山寺?」

 山寺貢―やまでらみつる―が現れたことで涙が止まり、泣き顔を隠すように顔で覆った。

「ノックしてから入りなさいと再三言っているではありませんか」
「まあ、そのような些細なことは置いといてですね・・・」

 自分のことを棚に上げて貢は芽衣に語り掛ける。

「お嬢様は弱いんですから、自分のペースで一つずつやっていけばいいんです」
「でも、それだと霞ちゃんが悲しむの」

 霞が言っていることは間違っていない。引き籠りも、車いす生活も、全部芽衣の保身が用意した居心地のいい生活だ。しかし、その安楽が霞との仲を引き裂こうとしている。
 芽衣が思っている以上に生きることは大変なことで、現実とは辛いことの連続ばかりでありながら、些細なことに一喜一憂することに楽しむものだと訴える。
 夏の暑さも知らない、外の景色も見えない。井戸の中の蛙の状態が本当に幸福なのか・・・?

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「このままでいいとは思わない。でも、私は変われないよ」
 
 芽衣が示した通り、足の筋肉は衰え、立ち上がることは出来ない。

「分かりますよ。私も半年間引き籠って誰とも会わなかった時期があるんですが、第一声の時は声が出なかった記憶があります」
「なんかリアル・・・」
「重要なことは変わりたいと思う気持ちです。お嬢様が生活を打破して外に出たいと思うのでしたら、私は嬉しく思います。慌てることはありません。まずはリハビリして足の筋肉が付くよう栄養を取りながら運動を――」
「そんな会話を何回繰り返してきたの!?」

 足のリハビリは夏休みの間からずっとやっていたことだ。本当は学校にだって登校できるとおもっていた。しかし、足の回復は一向に良くならなかった。信じていた分だけ裏切られた時の気持ちは大きい。既に芽衣は何度自分に裏切られてきたか分からなかった。

「もう、嫌なの。自分がキライ・・・みんなから嫌われて、一人になっていくのがわかるの・・・」

 動かない両足。自立できない自分。芽衣にとって苦しい日々が続く。それはそうなのだ。外の暑さに苦しむより、車いすの上から動けないことの方が何倍も辛いに決まっているのだから。

「霞ちゃんに嫌われたくない・・・だれか、助けてよ・・・」
「分かりました。そんなに早く変わりたいというのなら、――今すぐ変わってあげましょう」
「えっ?」

 貢が芽衣に応えるように、懐から小瓶を取り出した。
 ピンク色の粉末が入った、謎の薬品を。